本日、奇跡体験!アンビリバボーで【日本にいた!パラリンピックの父と呼ばれた医師】
「1964年東京パラリンピック実現のため活躍したのは、なんと日本人医師だった!」という題名で放送されます。
今回はそんなパラリンピックの父と呼ばれた医師「中村裕博士」について紹介していきます。
中村裕博士の経歴
別府に日本のパラリンピックの父といわれる人がいたのをご存知ですか?
それが「日本のパラリンピックの父」と言われる、別府生まれの医師、中村裕博士です(1927~84)。

国立別府病院整形外科科長であった中村博士は、1960年2月から約7ヶ月間リハビリテーションの研究を目的にアメリカおよびヨーロッパに派遣されました。
1960年5月、イギリスのストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷者センターに留学。
グットマン博士の指導の下、スポーツを医療の中に取り入れて、残存機能の回復と強化を訓練し治療するのを目の当たりにし、強い衝撃を受け、中村博士はこの手法を日本で実践する決意をして帰国しました。
パラリンピックの名付け親は日本人の新聞記者だった?

1964年の東京パラリンピックは、『パラリンピック』という名称が世界で初めて使われた大会だったといいます。
当時海外ではパラプレジア(脊髄損傷)・オリンピックという名称が使われていたのだが、「実はパラリンピックと名付けたのは、日本人の新聞記者だった」そうです。
名称の由来や「パラリンピック」と名付けたのが日本人新聞記者というのは驚きですね。
パラリンピックが実現したのは坂本九のおかげ?
中村さんがパラリンピックを開催するにあたり悩ませたのは、資金面でした。パラリンピックを開催するにはかなりの資金が必要だったそうです・・
当時パラリンピックの準備委員会にいた元厚生省の井手精一郎氏の言葉↓
「国から出たのは2000万円、東京都からは1000万円だったので、あとの開催費用は募金活動です。当時バーテンダー協会が協力してくれて、バーに募金箱を置いてもらい4800万円集まりました。募金活動には(故・)坂本九さんも参加してくれましたね」
なんと、「上を向いて歩こう」でお馴染みの坂本九さんも募金活動に参加していたみたいですね!

坂本九さんもいたから今のパラリンピックがあるのかもしれないですね!
まとめ
当時の日本では、「リハビリ」という言葉はまだ一般的ではなく、医学界でも「未知の分野」だったそうです。
そして東京パラリンピックの開催にこぎつけるまでは、一筋縄ではいかなかったそうですね。。
障がい者スポーツに対する社会の無理解、無関心は相変わらずだったにも関わらず、中村さんは類まれな発想力と強い意志で、日本の障がい者をめぐる歴史を変えた「チェンジメーカー」だとも言えますね。